人生の意味って「今、生きて、何かを感じていること」でしかないんじゃないか
人生に過去も未来もなく、今この瞬間しかない……みたいなことを哲学者が言ったりします。
財産や名声というわかりやすい遺産?がある人生だけが意味のある人生なら、そもそも大半の人の人生が無意味です。「人生なんてそもそも無意味」という主張も、意味を求めなくて済む人にとっては正しいこと。
「私の人生意味あるんだろうか」と考えた時点で、意味を求めているということです。意味=世間的な価値なら、財産や地位のある人は有利に見えるでしょう。意味=生きがい、趣味、好きなものと捉えれば、無趣味でやることのない人生は無意味に感じるかもしれない(私も無気力無関心のときはそう感じます)
でも、努力しようが上手く行かないことがあるのは人生の常であり、望まずに悲しいことになることもあります。私もですが。
たとえば、空がきれいだと思う。写真を撮る。
私が思うに、その瞬間には意味があります。
私という人間の感情や判断があります。
地位のなさや貧困さは、
この瞬間には関係ありません。
コンクリートから生えた雑草。あれも大半の人には無意味かもしれませんが、私にとっては格好の撮影対象です(たまに不審がられますが……)あの強さはよく文章でも引用されますよね。
大半の野生の動植物は、人間の意思に関係なく生きていますが、あれは無意味ですか?
大半の人間は自分で望んだのではなく、親により生まれさせられる感じです。自分の誕生はコントロールできません。
たとえばどうですか、親に捨てられた子供がいたとして、あなたはその子に「お前に意味はない」みたいなひどいことが言えますか?言いませんよね?
なのに自分には「私の人生意味ないんじゃないか」と言って悩んでしまう(私もです)。
意味がない=何かが足りない、ということなら、「足りないものは何か」「それって本当に必要なのか」「そもそも可能なことなのか」と考えてみたら、
「やっぱり必要なかった」となるのかもしれません。「いや、どうしても必要だ」なら、それに向かって努力するしかない、あるいは、諦めるしかないわけですね。
「我々は、自分による以外は、世界への窓を持っていない」
という言葉があります。
最初に誰が言ったのか忘れてしまいました(私は保坂和志さんの本で知りました)が、世界を見るための窓が、自分が生きてここに存在していることそのものしかないとなれば、もう、「たまたまこの時代に生きて、世の中を見ている」だけでも、十分意味のあることではないでしょうか。こんな偶然、こんな機会は他にはないわけですから。
私は兄弟姉妹に知的障害があり、遺伝の可能性があるため、小学生のときには、
「結婚も出産も差別で無理かもしれない」
と言われていました。もし「女性の人生の意味=子供を産むこと」みたいな考え方をしていたら、その時点で私の人生は無意味になりますね。
だから私は仕事がしたかったのですが、実は私自身も障害があり、まともに仕事ができませんでした。
せめて仕事ができればまだましだったのですが、結婚も子供も仕事も諦めなければいけない、福祉に頼らなければいけないという生活は、人生から自信や希望を奪って行きました。
40代に入ってうつになったり人生を悲観したのも、そういう事情があってのことでした。
同年代の女性は、結婚して子供がいるか、仕事でキャリアを積んでいますが、私は体調に気をつけながらただ生きて、作業所に行くだけです。
私の人生の意味は?
と考えると希望のなさ加減に落ち込みました。
でも、空を見れば写真を撮りたくなり、雑草や花を美しいと思えば(不審がられながらも)タンポポの写真を撮ったり。
生きて何かを感じられるうちは、まだ大丈夫なんじゃないかと最近思い始めました。
生活の苦しさは変わらないですが。
あなたの人生の意味(にしたいこと)は、
何ですか?
結局、意味にしても価値にしても、自分で決めるものなのかもしれませんね。
道の隅っこで雑草を撮影している人を見たら、ほっといてあげてください。あなたには見えない価値や意味が、その人には見えているのかもしれません。